チェンソーマン デンジが求めた普通とは?

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マキマは、脳だった。

まずは、

チェンソ―マンの話だ。

 

10巻を読んだ。

 

ますます、

わからん。

でも、

藤本タツキが、

なにを考えているのかが、

少しだけわかったセリフがあった。

 

以下

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(マキマのセリフ)

キミが

普通の生活を

するかわりに

ポチタは

キミに

心臓を

あげる

 

中略

 

これから

デンジ君が

体験する

幸せとか

普通とか

はね

 

全部私が

作るし

全部私が

壊し

ちゃうんだ

 

以上

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうか

マキマは「脳」

だったんだ。

 

 

 

唯脳論

という言葉がある。

養老孟司という人が提唱した言葉。

その意味するところは、簡単に言うと、

文化や伝統、社会制度はもちろん、言語、意識、心など人のあらゆる営みは

脳という器官の構造に対応しているという考え方。ただし、脳が世界を創っているなどとしてすべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない。「脳という構造が心という機能と対応」しているとする。そして構造と機能を分けてみているのは脳である。

すべての人工物の仕組みは脳の仕組みを投影したものである。人は己の意のままにならぬ自然から解放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにできた世界が脳化社会である。その特徴は下記の通りである。

・人工空間の成立

・仮想空間の成立

・自然の排除

ウィキペディア

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

脳という器官の構造は、

意志を持っている

 

自らを存続させようとする意志。

 

長年付き合って思ったが、

その意志はしつこい、

 

 

自らを存続させるためには、

なんでもする。

それが、

脳。

 

実は

長い間、

自然と脳は、

うまくやってきた。

持ちつ持たれず、だ。

自然を、普通と言い換えてもいい。

脳は、普通と仲良しだ。

あたりまえの生活。

脳は、

それにたいして、

「まあいいんじゃないか、妥協しよう」

と言う。

なんでそんなことを言うのかというと、

脳自体も、

それを生かす、

身体というものも、

自然の一部だから。

自然という身体という生命を失ってしまったら、

脳は存続できない。

だって、

脳は身体の一部だから。

しかし、

脳は

すべてを支配できる、と

そんなふうに、

思いあがってしまった。

身体の一部だということを

なかったことにできる、

そんな風に思いあがってしまった。

 

我々は自然から遠く離れてしまった、

それは、

脳の支配する領域が果てしなく広がった

と同義。

 

しかも、恐ろしいことに、

脳は、自分以外誰も信じていない。

「本当には」誰も好きではない。

自分の「好み」は好きである。

自分の「仲間」は好きである。

しかし、「あれ?」違うかな?はない。

「あれ?」違うかな?は、皮膚感覚である。

皮膚感覚は、身体感覚だから、自然の領域。

脳が妥協せざるを得ない領域である。

 

そうなんだよ。

脳は妥協してきた。

普通の生活は自然にのっとったものであり、

それに脳は、妥協せざるを得なかったのだが、

自然に乗っ取った普通の生活が、なくなってしまってきてるんだよ。

 

問題はそこなのだ。

 

<もう妥協しなくても生き延びることができる>by脳

 

だから、

チェンソ―マンのような漫画が、

現れる。

そういう時代になった、

そんなことを思ったのであります。

初夢?  〜やわらかくこまやかでみずみずしいなにか〜

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一昨日橋の上から富士を、昨日農道で鷹を見た。ナスは夏、だろ?


初夢

正月の2日に見る夢のことらしい。

なぜ、元日ではなく、2日なのか。

多分だが、元日だと、初もうでで人混みに疲れてしまったり、

親戚まわりで飲みすぎてしまったりで、夜はぐっすり寝てしまう、

ぐっすり寝てしまうと、夢を見ることはあまりないから、

「あーーーー」俺は初夢を見ることができなかったぁと、

正月早々絶望する御仁を少なくするための、

古の方の知恵だったのだろうか。

 

では、3日に見た夢は初夢と言わないのだろうか。

というのは、諸般の事情で、2日に夢を見なかった、というご仁も多いのではないか、

そう思うからである。

いや、

俺は元日も、2日も、3日も夢は見なかった、

というご仁はどうしたらよいのか。

その年最初に見た夢を、初夢、と言ってはいけないのだろうか。

そこいら編の事情が、私、薄学ゆえに全くわからないのだが、

へりさん、一つ頼みます。

 

へりさん、

へりさん?

 

まさか、

この自粛正月にお出かけではあるまいな?

 

あ、

今日は、そうか、もう正月ではないのであった!

家人も、早く家を出ていったし、

そうか、へりさんも今日から出勤なのね。

仕方ない、この謎は解けないままなのだが、

3日に私が見た夢というか、夢の中で感じたことを、

初夢と決めて、少しお話したい。

・・・・・・・・・・・・・

初夢の内容は支離滅裂であったので、ご披露することはできないが、

自分がマッパマンになってしまっていて、あれまぁ、これはこまった、

早く服のあるところに戻らなければ、と焦りまくりながら、

いろんな部屋に入っていってしまうという奇天烈な夢だった。

いろんな部屋に入るのだが、

見られてはいけない、という意識がとても強く、

ひたすらその部屋の出口を探し、逃走するというパターンであった。

しかし、だ。

恥ずかしいのだが、恐怖はなく、

まずい、とは思うのだが、満たされている。

それがどこにあるか、というのはわからないのだが、

 

マッパマンの私は、やわらかくこまやかでみずみずしいなにかと、ともにあったのだ。

 

自分の中か外かもわからないのだが、

そういうやはらかいものと共にある感覚はずっと、

あった。

・・・・・・・・・

それは普段は夢の中でも、なかった感覚であった。

 

そんなことから、

年末年始ゆっくりして、のんびりしたときに見る夢だから、初夢は大事にされるのかなぁ、

などと思ったのである。

 

仕事の身体になっていると緊張が寝ていても取れず、

夢であっても、現実の縛りから離れられないのかなぁ、

などとも思った。

 

今一度、あの時の感覚を振り返ってみると、

あやういもの、

尊いもの、

それが等価で、

共にある。

 

それを自分が包んでいるのか、

自分が包まれているのか、

あいまい。

 

よくわからない感覚だったのだが、

忘れてしまうことはとってももったいないと思って書いてみた。

 

お付き合い、ありがとうございました。

 

チェンソ―マンと若冲

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チェンソ―マン

現代の漫画である。

いろいろと話題になっているようだ。

 

世がコロナ禍になる前のことだから、

かれこれ、2年位前のことであろうか。

中華屋でジャンプを手に取ってみたら、何っこの漫画ぁあ!

という、マンガが目に飛び込んできたぁぁぁそれが、チェンソ―マンであった。

それ以来、気になっていて、最近ようやく、既刊9巻を大人買いすることができた。

 

そして、見た。

いや、話題になるのがわかったよぉ。

出会ったのは初めてだよぉおという、表現の能力なのでした。

けれど、悔しいかな、、、、、

説明ができない、

言葉にできない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

きのうのことである。

ライジン若冲」というNHKの時代劇を見た。

若冲というのは人の名で、江戸時代に活躍した絵師である。

 

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若冲の絵は豊穣である。

森羅万象が、

いのちが、

息吹が、

音楽が、

在る。

・・・・・・・・・・・

 

チェンソ―マンの世界もしかし、豊穣である。

森羅万象が、

いのちが、

息吹が、

音楽が、

 

簡単に

 

崩れてゆく。

 

片や

世界のありようがありようそのままに受け取る可能性に満ちた時代。

片や

こわしてもこわしても、せかいのありようがみえてこないじだい。

 

わたしは、藤本タツキ(チェンソ―マンの作者)の才能がなんであるのかを、

若冲の番組を見ることで、すこしだけ、理解できたような気がするのだが、

やはり、言葉にすることは難しい。

 

もしかしたら、

チェンソ―マンは、

神話か!

しかし、神話、私、苦手なのである。

 

明日は、10巻が出る日である。

最終回が含まれる巻なのだろうか?

全部見たならば、もう少しは、言葉が出てくるのだろうか。

とても気になる作品ではあるので、

言葉が出てきたら、いいなぁと思っているので、

その時はどうぞお付き合いください。

 

 

忌野清志郎のこと。

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レコード大賞

家人がみていたので、

見るとはなしにぼーーーとしていたら、

忌野清志郎が画面に出ているではないか。

おーーーーーーーーーーーーーーーーーと、

うれしさあわてて、目をやると、確かに清志郎が映っている。 

しかし、

だ、

 

喜びはどん底に落ちた。

 

清志郎が歌う声ではなく、

鈴木雅之とかいう方の歌であった。

やめてほしかったのだが、しかたない、

洗い物をしに、台所に行った。

 

私の好きな男の歌い手

甲本ヒロト

喜納昌吉

中川敬

 

そして、忌野清志郎

 

忌野清志郎のお別れの会に行った。

青山葬儀所、だったか、

たくさんの人が来ていて、

5時間くらいゆっくり散歩して、

清志郎にお別れを言った。

 

そのとき、

トランジスタラジオ」

が流れていた。

とっても好きな曲、

もしかしたら、一番曲。

 

その時思ったのは、

こんなに俺、清志郎のことが好きだったんだ、ということ。

 

ヒロトが、

昌吉が、

中川敬が、

死んだとき、

俺は葬式に行くだろうか。

 

俺の方が、ヒロトよりも中川よりも、

年寄りだという理由で行かないかもしれないが、

例えば、私が100歳以上、長生きして、

ヒロトや、中川がそれよりは短命だとしたら、

俺は葬式に行くだろうか。

 

確かにわかっていることは、

清志郎のお別れ会には、気がついたら行っていたということだ。

行くのが、当たり前のように、葬列に、いた。 

 

ずっと昔の話。

 

清志郎に家庭教師をしてもらっていたという、

友だちの友だちの話。

 

「とても暗い人だったらしい。」

 

その暗い人が、

世の不条理に怒り、

「パパの歌」をうたい、

そして

自転車で走ることを喜んだ。

 

清志郎は、

ものすごく、とっても、ごくごく、

普通なのだ。

世の不条理に暗くなり、怒り、

そして、人を愛した、

とおもう。

普通で、けれども、

ものすごく、とっても、ごくごく、

表現の神様に、

愛された人。

 

だから、清志郎の歌は、

ほかの人が歌わないでほしいな。

おれはうたうぞ、うたえたことないけど。

鬼滅の刃がわからない

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鬼滅の刃がとてつもない人気らしい。

私は、

まったく乗り遅れている。

実は、

先駆けて、

コミックを読んではいる。

鬼滅が、ジャンプの異端とされ、

レンタルコミック屋で簡単に借りられた頃。

 

なに、異端!おもしろそうではないか。

で、ひねくれものの飲んだくれは、

異端ならば読んでみようじゃないか、と思って読んだ。

 

そう、読んではいるのだ、人々が騒ぎ立てる前に。

コミック5巻まで読んだ。

で、どうだったかというと、

あまり面白くなかった。

だから、なぜ今、きめつきめつきめつと、

人々が騒いでいるのかが疑問なのである。

 

もちろん、5巻でやめてしまった私は仁和寺にある法師なのだとおもう。

仁和寺にある法師とは、

徒然草第52段のはなしである。

 

仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思い立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたえの人にあひて、「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事ありけん。ゆかしかりけれど、神へ参るこそ本意なれと思いて、山までは見ず」と言いける。

すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。

 

(口語訳)

仁和寺にいた、ある法師が、年をとるまで石清水八幡宮をお参りしたことがないことを情けなく思い、ある時思い立ち、一人、徒歩でお参りに行った。(山麓の)極楽寺と高良神社をお参りし、(八幡宮へのお参りは)これだけと思い込み岐路の途についた。

以下略

 

きっとそうなのだろう。

 

私飲んだくれは、仁和寺の法師なのだ。

 

飲んだくれぇ、あんた、最後まで読んでから、言ったらどうなんだ、

というポジさんの声が聞こえてきそうである。

 

確かに私はコミック5巻までしか読んでいない。

6巻以降話が急展開して、とてつもなく面白くなったのかもしれない。

読んでいないのだから、言う資格がないことは重々承知しているのだけれど、

5巻までよんで、魅力を感じなかったのだから、その後もたぶんそうなのだろうよ、

という内なる声も響いているのは確かだ。

 

では、

世間一般と、

私の感性の不一致はなんなのだろう?

 

たぶんそれは、

 

世界の割り切れなさ、

不条理、

に関すること。

 

 

鬼滅の不条理。鬼滅の世界の割り切れなさ。私にはリアリティがなかった。

不条理に、リアリティがなかった。割り切れなさに、リアリティがなかった。

 

そうだったのか!

 

うーん

一人で納得し、とても申し訳ないが、

自分なりに訳が分かって、よかった。

よかったが、それで、鬼滅の圧倒的な人気の訳が分かったということではない。

機会があったら、

コミックなら、

l最後まで読んでみようとは思っている。

 

 

自分軸とか、多様性とか、いい言葉なのだろうか?ちょっと考えてみた。

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変なことを考える。

考えるだけではなく、言葉にしてしまう。

だから私は飲んだくれと言われる、

なーんてこと、どうでもいいんだけれど、

最近気になるのです。

 

例えば、

自分軸。

諸諸の本によると、

人には軸があった方がいいということらしい。

まぁ、そうだとおもう。軸がないと疲れやすいからね。

でも、自分軸、自分軸、自分軸と、自分が入ると、どうなのかなぁと、

思ってしまう。

 

また、

多様性

という言葉にも、

危うさを感じる。

 

いろんな人がいていい。

みんなちがってみんないい。

それはそうなのだが、なんか違和感を感じるのだ。

 

多様性とは、自分の中の多様性なのではないのか。

 

どういうことかというと、自分の中にいろんな自分がいる。

例えば、

あれ、飲んだくれなのに、こんなまともな俺がいる。

どうした、なんでそんなところで感動する俺?

エトセトラ

 

なのだが、

自分の中に多様な自分がいたことに驚き、喜ぶ幸せを私は望む。

 

それがだよ、自分軸とか言って、

固まった自分が、

おれはおれ、ひとはひと、

多様性万歳、みんなそれぞれ勝手にやればよいではないかぁ!

個性尊重、はいわかりました、でも、自己責任だからね、そこんところよろしく!

 

そういうふうになってしまうのは、本末転倒なのではないかなぁ。

 

喜怒哀楽、

それは生きる上で、

選ぶことできないよね、

結果、諸々浴びまくって、

結果、やむを得ずながら、自らの多様性を受け入れ、

それをわが身とした人が、

なんだ、こいつも同じではないかと隣人にも多様性を見つける。

そのときはじめて

ふらふらした軸があなたと隣人にあるのだろうと思うのだけれど。

 

 

ふらふらゆれながら、移り行く軸。 

それこそが、

これからずっと、

生きていくことができる軸になるのだろうと思う。

自分軸というならば、それは、そういう軸であった方がいい。

 

そんなことを思う今日でした。

 

 

 

絵ことば又兵衛 〜難儀な己を抱えたまま、ふらふら生きる〜

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絵ことば又兵衛 を読み終わった。

面白かった。いいものを読んだ。大変な書き手だと思った。

著者の谷津矢車さんは、千九百八十六年生まれ。若い方だ。

ご本人は、ゆるふわ系を目指しているという。しかし、この物語には芯があった。

 

その芯とは、

人の世を生きる、

その千差万別なあり方、

全てに対する愛おしさ。

 

谷津矢車の芯と、

この物語の主人公、岩佐又兵衛の芯が、

とても近しいところにあったがゆえにこの物語は秀逸なのものになったのだろう。

 

岩佐又兵衛

絵師である。

 

時は戦国、波乱の時代。

 

時の覇者、織田信長に反乱した荒木村重の嫡男として生まれた又兵衛は、

乳母のお葉とともに、覇者の追ってから逃げのびる。

又兵衛は、お葉を母とし、健やかに育つが、

ふとしたことから、

絵の道に捕まる。

 

捕まった又兵衛は、

己の、如何ともし難い難儀を、

絵により、解き放とうと足掻く。

絵を描くことが唯一の救いであるが、

絵を描くことでしか生き延びることができない。

 

この小説を読み終わって、

谷津矢車は、又兵衛のことが好きなんだな、と思った。

好きじゃなかったら、又兵衛のことをこんな風には書けないだろうな。

 

私も、そうだ。

谷津矢車が描いた又兵衛を好きになった。

 

市井の「人」を愛し、

吃りで、生きるに不器用な又兵衛が好きになった。

 

私が一番好きなところ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・

 

しばし、部屋の中には沈黙が満ちた。ややあって、鶴姫がぽつりと口を開いた。

「ー父は、わらわのことを想うておられたか」

その時、鶴姫の大きな両目から、一筋の涙が零れた。左の目から零れた涙は頬の傷を伝い、流れた。それはまるで、傷跡を癒すかのようだった。

絵ことば又兵衛p323より

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

思いきりはしょるが、

鶴姫の父は松平忠直である。

忠直は秀康の子である。

秀康は、家康の次男。秀吉の養子となった。

 

秀吉の世も、家康の世も、肯定したい

秀康の、その思いを忠直は密かに受け継いでいた。

忠直は父の思いを何より大事にしたい男であった。父が大好きだった。

情愛溢れる、

「人」であったが故に、

忠直は、豊臣と徳川の狭間で、

狂った。

狂った忠直に、鶴姫は傷つけられたが、

又兵衛の絵を通して、

狂わない父の思いを、

受け取ることができた。

 

そんな鶴姫の涙であった。

 

もう、この物語は絶対に面白い。

読んでいただきたい。

お願い。