土曜日。
もう習い事に出かけている時間であるが、自粛である。家にいる。
なので、ブログを書くのである。今日は、才能について考えてみた。
小4を担任していた時、勉強が大変苦手な男の子がいた。学力向上を教員の重要課題としていた私は、しつこく、しつこく漢字練習をその子に要求した。でも覚えられない。
(家で練習するように言ったにもかかわらず、やってこなかったんだな)と決めつけ、練習してこなかったことを怒ろうと思って、「練習してきたノートを見せて」と言った。
彼が差し出したノートを見ると、ぎっしり練習してあるではないか!
「がんばったんだな・・○○は漢字苦手なんだな・・」「がんばったのはよくわかったよ。」「よくがんばったな。」と言うしかなかった。
その彼が埴輪の人形を「先生、これあげる、家で作ったんだ。」と私の机まで持ってきてくれたのが、写真の埴輪です。私は一目見て気に入り、好きで、今だにケースに入れて飾ってある。
恥ずかしながら、がんばれば、みんなできるようになる、と思っていたころの話だ。
漢字を始め、勉強ができることは価値がある、と思われている。
体力があることも、運動神経がよいことも、そうだ。
容姿がいいこと、お金をたくさん持っていることもそうだろう。
それはそれでいい。
私も価値のある人間になりたかったし、今もなりたいと思っている。
「価値のない」なんて不安でしょうがないじゃないか!
でも、だ。
才能は千差万別なのだ。
例えば、仙台四郎。(すみません。字数の関係で説明できません)
今でいう知的障害があり、会話能力が低かったようだが、「人神」「福の神」になった人だ。
あるいは、山下清。(すみません・・)
あるいは、私が出会った人たち。
私は職業柄、いわゆる障がいのある方とたくさん出会ってきた。
みんながみんな、商売繁盛させたり、素敵な貼り絵を作ったりするわけではないが、
彼らと一緒にいることで、「安心な」時間を過ごすことができた。
一緒にいると人を安心させる方が多かった。
思い出した。
大学生の頃、飲み屋でときどき一緒になった教授はいつもかなり飲んでいて、
「俺はバカになりたいんだ。」と、屋根に上って物干し竿で星を取ろうとした人の話をしていた(どうも江戸小咄のことだったようだ)。
(いや、酔って話しているあなたは十分バカです)と思いながら、「いや、俺は頭がいい方がいいです。」といった記憶がある。
「頭がいいなんてなんもいいことがないぞ。」と教授。
その教授のことが、今となってはすこしわかる(私も飲んだくれになった)
どうも、思い出話になってしまったようです。
だいぶ書いたし、昨日買ってきた「52ヘルツのクジラたち」町田そのこ著を読むか。