1987年 夏
私は水俣実践学校に参加した。
一週間の日程で、患者さんの話を聞き、援農体験をし、水俣病について講義を受ける。
講師には原田正純先生や、浜元二徳さんたち患者の方々もいらっしゃった。
食事は参加者持ち回りで自炊、寝るのは相思社の広間に雑魚寝。
風呂はどうしていたのかなぁ、覚えていない。
便所は汲み取りで、肥溜(こえだめ)。
肥溜から糞尿を、肥桶(こえたご)で運んだ記憶がよみがえってきた!
どこに運ぶかというと発酵させる壺みたいなところだった、と思う。
そこで発酵させて肥料にしていたのだろう。
これを担いでこぼさないように運ぶのがとても大変だった(いろんな意味で)
夜は毎日飲んでたなぁ。いろんな人といろんな話をした。
学生さんが多かった。中には高校生もいて、先生と一緒に来ていた。
援農で、島に渡り、夏ミカン畑の下草刈りをしたり、
援漁で、小舟に乗って海に出て網を引っ張る仕事もした。
この援漁体験がとても心に残っている。
水俣のあちこちを案内してもらったとき、
森の中に入っていくと、こんこんと水が湧き出る泉があった。
海ではなく、その森に、私は水俣を一番強く感じた。
水俣は、きっと天国だったのだろう。
石牟礼道子さんの著書から、水俣が人の原郷のようなところと思っていたが、
森と泉に出会った時、
そのことを確信した。
そして
人々
出会った水俣の人々に圧倒されたことを思い出した。
その当時は、そういう言葉にはできなかったのだが、
私は圧倒されたのだ。
なにに?
水俣の人々は何層にも重なった身体性を持っていた。
表面上の個性の違いのその奥に、湛えているコト。
豊穣?
そのコトに圧倒されたのだと思う。
・・・
(前略)
あの娘さんも、またお母さんも、水俣病という苦役の泥の中にいるにもかかわらず、いや、だからこそ、蓮のように美しい花を咲かせている。ユージン・スミスのあの写真は、蓮華を見事にとらえていた。
仏教ではこの人たちを菩薩という。菩薩は現実の世界に生き、世間の汚れた泥に染まらず、真理の花を咲かせる。このお母さんと娘さんの存在が真理であり、花なのだ。
あの娘さんこそまさしく菩薩なのだ。カメラによって撮られた光と影とが、私たちに生きることを励ましつづけてくれる。
(中略)
あの写真の前で、私はいつでも掌を合わせたい気持ちになる。
水俣・東京展1996総合パンフレット
水俣・東京展によせて
『水俣菩薩』立松和平 より抜粋
私の行った1987年頃はたぶん「継承」の時代だった。
立松が患者さんに菩薩を見た1970年代初頭の頃から15年余の月日が流れている。
1987年当時、水俣に「激震」はなかった。
しかし、激震の時代を経て、積み重なってきた人々の思いの層や、
水俣病によって逆にたちあらわれ、意識されることになった生命の源という古い層
水俣の方々の身体に宿ったその層に、
私は圧倒されたのだ。
それからさらに33年
石牟礼道子さん
原田正純先生
立松和平さん
今はもう会えない。