鬼海弘雄 著「誰をも少し好きになる日」を読んで、かなり飛躍的に、思ったこと。

ある面

人の成長とは、

自我(脳)の拡大と言えるだろう。

自我が芽生え、広がっていくことが、大事。

 

しかし、自我(脳)は、他の自我にブレーキを掛けられる。

・・・○○をしてはいけません・・・○○をしなさい・・・○○は・・

そういうブレーキをかけれられながら、自我(脳)は真っ当な自我になっていく。

 

いや、まて、

真っ当な自我って何だ?

ではまず、ブレーキがかからなく育った自我(脳)のことを仮想してみよう。

例えば、

赤ん坊の時から、どんな要求も通り、

物心つけば、欲しいものをいつでも買ってもらえ、

長じても、苦労知らず、親の金で、わが儘放題に生活できるひと。

 

うらやましい!

 

そうかな、

私はそんな人がいたら、

鼻持ちならない、不幸な方だと思う。

なぜなら、その方にとって、周囲の人間は支配の対象でしかないと思うから。

 

赤ん坊は、自己の生存のために、世界を支配しようとする(らしい)

笑ったり、泣いたり、怒ったり、身体を動かしたりすることによって、

周囲の人間を自分の意のままに動かそうとする(らしい)

 

しかしだ。

大人には大人の事情というものがある。

ミルクを与えたり、おむつを替えたり、あやしたり、

大抵のことはかわいい赤ちゃんのために、やる。

しかし、仕事というものがあるために、いつもいつもかまってやるわけにはいかない。

また、幼児になると、あれがほしい、これがほしいと、言ってくるだろう。

しかし、使えるお金には限度がある。

すべての要求にこたえるわけにはいかない。

 

大人は、社会という制限(その中に文化もある)の中で生きている。

子どもは、身近な大人を通して、社会を知ることになる。

その構図は、太古の昔から、民族地域にかかわらず、あっただろう。

(日本においては、たぶん昭和の時代まで?)あったことだろう。

 

ここで、

鬼海弘雄 著「誰をも少し好きになる日」から、次のような1章を紹介したい。

 

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(著者が台湾に行った時のこと)

略 急に腹が空いているのに気づいた。

食べ物屋が並ぶ界隈を何度も往復した。 略 ありふれた飯屋に入った。歩道に出されたテーブルでは、サンダル履きの近所の年の離れた男たちが鍋をつつき、紹興酒を飲みながら大声で談笑していた。

奥の席には日用品が並んでいて、そこが飯屋家族のテーブルだとすぐに分かった。パジャマを着て髪にカチューシャをした十歳ほどの女の子が教科書で勉強している。換気扇がヘリコプターのような音を立てる厨房では、黄色いTシャツを汗で濡らした父親が中華鍋をリズミカルに煽っていて 略 

 店内の客の数にしては厨房が忙しいのは、通りがかりの人が料理を頼み、紙の箱に入れて持ち帰りをしているせいだ。しばらくすると、二階の住まいから婆さんと嫁さんが降りてきた。爺さんが息子に変わって厨房に立つと、婆さんへの特別料理を作り、それを食べ終えた婆さんが今度は、爺さんと息子夫婦の分を作り始めた。婆さんの両膝には頑丈にサポーターがまかれていて、ゆっくりと体重移動をしながら中華鍋を扱う。その動きから察するに長年膝を患っているのだろう。

 髪を七三に分けた爺さんは猫舌なのか野菜スープをふ~ふ~と息を吹きかけてゆっくり啜る。食事中に孫娘に勉強のことを訊かれると、冷蔵庫の上から分厚い百科事典を取り出してきて、婆さんと額を寄せあって調べ始めた。

 若夫婦客が勘定を払うと、爺さんは受け取った札を輪ゴムでくくってあった札束に加えて、ファスナーつきの尻のポケットにしまった。酒の酔いもあって、懐かしい昭和の時代に戻ったような気がした。歳のせいだろうか、その懐かしさは単なるノスタルジーだけでなく、未来につながってくれればとの願いも生まれてきて、その夜は、いつもよりは少しだけ人を好きになれるようないい気分になって店を出た。 略

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この飯屋の家族は、決して裕福ではないだろう。

孫娘の個室は、ないのだろう。

けれど、きっと、みんなしあわせだ。

孫娘も、爺ちゃん婆ちゃんも、とうちゃんかあちゃんも。

 

大人は、社会という制限の中で生きている。

子どもは、身近な大人を通して、社会を知ることになる。

その構図は、太古の昔から、民族地域にかかわらず、在ったことだろう。

  

社会という制限は、ある意味とても素敵だ。

自我(脳)へのブレーキは、必要だ。

自我(脳)へのブレーキは、文化だ。

文化は、身体(からだ)をとおしてたちあらわれる。

 

文化をもってして、脳にブレーキをかけよ。

身体をもってして、脳の暴走を許すな。

 

身体なきスピもバーチャルも、文化なきそれも、人が人たる根源を奪う。