いったい、なにをしたいのだろう、齋藤某氏

斎藤某

有名である。

 

斎藤某とは同じ年だ。

身体論という興味も同じ。

しかし、飲んでばかりの私と違って、才能を努力であふれさせ、

縦横無尽に、執筆し、語り、行動する、斎藤某氏は、一種憧れであった。

 

さて、その方が、私と同じ習い事を一時期なさっていたことがあるという。

どんな方だろうと興味をもって、御著書を読んできたが、

なるほどとおもえるのは、初期の著書だ。

誠実で、確かだ。百を一に表している。

 

しかし、有名になってからの次々の著書には、

野心が前面に出ていて、とまどった。

 

おこちゃまなのか、このかたは。

あなたがいうことは、しごくもっともなのだけれど、

むりでしょ。

 

その理由を今日は考えたい。

 

多分、本当には、

人は人のことがわからない。

 

けれど、

「人はみんな自分と同じ」と割り切った時に、 

「人という抽象的なモノが、存在する」と、仮定したときに、

 

こうしたら、いいよ、こうしたら、あなた、しあわせになれるね、さあ、やってみよう、

 

というようにものをかけるのかなぁ、わたしにはわからないんだけれど。

 

才能がある人が人の役に立つ、その方法は、

すごくたくさんあるのだろうけれど、

疲れるんだよね、きっと。

斎藤某氏。

周りがです。