高橋一生は別格である、なぜなら・・・

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天国と地獄

最終回は泣いた。

たぶん、全国の多くの人と一緒に。

 

しかし、飲んだくれは怒っている、

なんなんだぁいったい今のテレビ番組というものはぁ。

なんで、どいつもこいつも、

10回放送で終わってしまうんだぁ。

制約が、在りすぎる。

 

なんで、

望月彩子が、次々

コマーシャルにでてくんじゃぁ。

コマーシャルがうざすぎる。

 

おめえたちよぉ脚本家や俳優の方たちに、

素手でコンクリートを掘らせるようなことすんじゃねえよぉ

 

しかしだ、

飲んだくれは感動しているのだ。

なんと、

素手でコンクリートを掘ってしまっているではないか。

 

高橋一生という俳優がいる。

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綾瀬はるかという女優がいる。

柄本佑という名脇役がいる。

・・・・・

一人では無理な荒事を

みんなで成し遂げてしまった、と私には思えた。

 

みんなで成し遂げたその中心にいるのは、

高橋一生だ。

今回の番組で私は確信した。

それは「凪のお暇」の時も、

うすうすは感じていたことだ。

しかし、「凪・・・」の時は、黒木華がいたがために、

高橋一生の、魂をひそかに揺さぶる神的影響力に、

うかつにも気づくことができなかった。

もちろん、黒木にも、

綾瀬にも、

それはあり、

だから彼らが渦立てるものがたりは、

あまりの制約の中でさえも、

見る者の魂をゆさぶる。

 

しかし、高橋一生は別格である。

高橋一生は、その本来の意味での「俳優(わざおぎ)」なのだろう。

 

「わざおぎ(俳優)」

わざ(神意)をおぐ(まねく)者

神様を楽しませる者

神様をなぐさめ、鎮める者

 

俳ー手を外に向けて、体を広げるような開放的で激しい動き

優ー手を内に向けて、顔を伏せるような内向的で静かな動き

(以上、shirokuroneko.comより)

 

高橋一生の内からあふれる、激しい、静かな渦が、

向き合う者の俳優(わざおぎ)の魂を呼び覚ます。

 

そういうことが現場で起きていたのだろう。

故に、「凪のお暇」は類まれな大傑作(個人の感想です)であり、

「天国と地獄」は、制約在りまくりの中で作られた脚本ではあったが、

傑作となったのではないだろうか。

 

高橋一生

目の離せない俳優である。

 

 

 

 

 

 

「ふと」って最強?その1

人為

その反対語は?

 

なんでしょうか。

 

唐突ですが、

西洋人は自然を支配するべきものとして認識し、

東洋人は、自然を、そのなかで生きるものとして認識している、

風なことを訊いたことがあるのですが、

今は、

日本人こそ、自然から遠く離れて生活しているのではないか、

ということを最近強く思ったのであります。

 

理由はこうです。

 

日本人、勤勉。

いいことです、ですが、

勤勉ということは、人為、満載。

人為?

そのイメージは、

 

やります!!!!

ええ、やりますとも、

24時間働きます。

そのつもりで、働きます。

がんばらないわけにはいかない。

だって、やる気が大事。

モチベーション必須。

そういうビジネス書、ちょっと前は、流行っていたのではないでしょうか?

 

まぁ、それは、過去の遺物だとしても、

::::::::::

願望ですよ、人間は。

願望を宣言しましょう、

そうしたら世界はあなたの宣言をかなえます。

いや、世界は、あなたの世界なのです。

あなたの世界は、あなたが作っているのです。

あなたの意思が世界を創っている、

そのことに気がつきましょうよ。

 

自己啓発系の書物によく書かれているフレーズです。

スピ系ですな。

あなたはあなたのままでいい、

そこからはじまって・・・・・・

それはそれでいいのだと思うけれど、

結果、騙された人はたまったものではありません。

 

私は思います。

 

意志や意図が今の世界のドラマを作ってきた

のだけれども、

意図しない、

不図(ふと)ということが、

これからは重要になってくるのではないでしょうか。

 

ふと、そう思う、

ふとそう感じる、

ふと思い立って、

ふと、

意図はそこにあった!

 

「ふと」

それはとても有益なキーワードになると感じている。

 

次回は具体例も交えながら、

そのことについてもっとわかりやすく書きたいと思います。

 

山下泰裕の背中

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三船十段です。


まったく

興味がないのだが、

五輪の会長云々の話、

なんでこんなに騒いでいるんだろう。

見たくもないが、

家人がニュース好きなので、

ふと見てしまったのだ、

山下泰裕のせ・な・か

悲しい思いが、きたよ。

 

山下と言えば、

柔道のヒーロー。

エジプトのモハメド・ラシュワンとの試合は、

強く記憶に残っている。

強かった、かっこよかった。

道家泰然とした雰囲気で、すてきだった。

 

あれから、37年たった、

わたしは、飲んだくれのまま、歳をとった。

年月が過ぎたのは、山下泰裕にとっても同じで、

けれど、ひさしぶりにみた彼の背中には、武道家という雰囲気は、

なかった。

 

なんだ、これは、

なんなんだこれは、と思った。

衝撃だったのだ。

 

山下は、稀有な柔道家だったと思う。

しかし、柔道は山下に、

偉大な柔道選手としての経歴は残すことは許したが、

偉大な柔道家としての山下を残すことはしなかった。

 

山下は、広い意味で、

政治家になったのだと思う。

 

 

かつて、

嘉納治五郎が、

柔術を誰もが体験できるものにしたいと考えたときに、

柔術は政治の論理の中に投げ込まれ、柔道として、政治の論理の中で成長した。

山下は、それを一番確かに体現した人物なのだ。

選手としても、人柄も、その他も、

言うことなしだ。

しかし、

久しぶりに見た、

彼の背中に、武道家の背中は、

なかった。

 

山下は、

やりたいことをやっているのだろうか。

柔道という政治の中で、

彼は頂点を極め、

輝いた。

私は彼が好きだった。

誠実に一つのことを追い求め、

ひたすら努力し、その天才を発揮する。

その姿を見ることが、好きだった。

だが、たぶん、

政治と、柔道という政治はイコールではなかったのだろう。

そこに、彼の背中の寂しさ(私の主観)があった、

と私は思う。

 

若き嘉納治五郎が感嘆した、

日本武術の妙なる技、

それをより多くの人々に、

伝えたいとした嘉納の天才。

その結果の一つが、

山下の偉業であり、山下の背中の寂しさである。

 

わたしは、会長は誰だ、の

マスコミの騒ぎに全く関心がなかったが、

山下が、会長にならなくてよかったと思っている。

 

いったい、なにをしたいのだろう、齋藤某氏

斎藤某

有名である。

 

斎藤某とは同じ年だ。

身体論という興味も同じ。

しかし、飲んでばかりの私と違って、才能を努力であふれさせ、

縦横無尽に、執筆し、語り、行動する、斎藤某氏は、一種憧れであった。

 

さて、その方が、私と同じ習い事を一時期なさっていたことがあるという。

どんな方だろうと興味をもって、御著書を読んできたが、

なるほどとおもえるのは、初期の著書だ。

誠実で、確かだ。百を一に表している。

 

しかし、有名になってからの次々の著書には、

野心が前面に出ていて、とまどった。

 

おこちゃまなのか、このかたは。

あなたがいうことは、しごくもっともなのだけれど、

むりでしょ。

 

その理由を今日は考えたい。

 

多分、本当には、

人は人のことがわからない。

 

けれど、

「人はみんな自分と同じ」と割り切った時に、 

「人という抽象的なモノが、存在する」と、仮定したときに、

 

こうしたら、いいよ、こうしたら、あなた、しあわせになれるね、さあ、やってみよう、

 

というようにものをかけるのかなぁ、わたしにはわからないんだけれど。

 

才能がある人が人の役に立つ、その方法は、

すごくたくさんあるのだろうけれど、

疲れるんだよね、きっと。

斎藤某氏。

周りがです。

 

 

 

 

菅総理とか、トランプ前大統領とか‥‥


不思議だ。

企業のニュースは、企業名。

それなのに、政治のニュースは個人名。

菅とか、トランプとか、何やら騒がれている。

どうやら、弱っているから、ここぞとばかりの攻撃が、

激しいらしい。まぁ、やる方はいい気になっておるのですな。

 

おーい、飲んだくれ!

また奇をてらって、うけようとしているな。

菅総理とか、トランプ前大統領とか、ひでえやつじゃないか。

悪い奴は、批判されるのも、もっともなことじゃないのか?

 

いや、ポジさん、

私が言いたいのは、

政治って、個人がよく取り沙汰されますが、

個人が政治をしているわけではないですよね、ってことでござんす。

 

ござんすって、飲んだくれ、あんたふざけてんのか?

政治は個人の力量だろう?

 

ポジさん、

そう思われがちですが、

実はそうではないんです。

総理になったって、大統領になったって、

後ろ盾あっての話しだし、後ろ盾が動かしているともいえるのです。

 

それは会社と全く同じ、

言ってはいけないけれど、

ある意味では、同じなのではないでしょうか。

 

飲んだくれ、言いたいことはわかる。

会社のことなら、俺にも少しはわかる。

偉くなればなるほど、自分の思い通りにはならないようだな。

 

そうなんです、ポジさん。

ましてや、「国家」なんです。

個人どうとかの話しではないんです。

 

じゃなんだい、飲んだくれ、

菅総理とか、トランプとかを、

批判しちゃいけないってことかい。

 

いや、批判していいのですが、

政治には、メディアには表れない、

様々な力が蠢いているっていうことを、

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あと、北の太ったあの男とか、、、、


認識しての、戦略的批判であればいいのですが、そうではないと、

この国際的な危機は、乗り越えられないのだろうと思うのです。

 

たしかに、菅総理の言葉には、感情が感じられないかもしれない、

トランプ前大統領は、過激な発言と行動をしていた、

しかし、ヒトラーは、すごく演説がうまかったし、

穏健だったオバマ元大統領のもとでの国際紛争は、

実はとても多かった。

 

私が言いたいのは、個人を批判して、

それで世の中が良くなっていくのであればいいのですが、

個人を批判しても、なにもよくなっていかないのだろうということです。

 

じゃ、どうするんだっていうことですが、

いいと思う人や集団を、何らかの形で

応援する、ということが有効?

なのかと思っています。

 

ベストとは思ってはいませんが、

私は、がんばってほしいです、

もう少し、菅総理に。

 

異論変論、暴論? 特別支援教育における進路指導について

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本文と少しだけ関係します、いい本です。


異論でしょうか

変論でしょうか

いや、もしかして、

暴論になってしまうのでしょうか

私が語る、特別支援教育における進路指導

さて、

いってみますか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

要(かなめ)は、

知識主導ではなく、

体験主導であること。

 

キーワードは3つ

①自信を育てる。

②人の役に立ちたいという思いを形にする。

③健康を維持できる生活リズムを作る。

 

具体的には小学部段階から、

その子に合った役割(仕事)を作り、

達成できるように支援する。

 

達成できたことが、

その子の自信になる。

達成できたことを一緒に喜び、

「ありがとう」という気持ちを伝えることで有用感が育つ。

 

「仕事がしっかりできました。仕事をしてもらって、みんな助かりました」

 

一貫して、

「仕事」という言葉を使うことが大事。

なぜなら、

この種の体験を「仕事」と認識することで、

積み重ねができるから。

積み重ねることで、「仕事」をしようという意欲が育っていく。

そう、

「仕事」という言葉に抵抗がなくなって、

自ら仕事をしたいと思うようになることを目指す。

 

③の生活リズムを整え、

健康な生活を送る、ということは、

①、②の基盤となるもの。

心身の安定が、基盤となり、活動しようとする意欲につながっていく。

 

家庭教育に協力を求めるとすれば、

次の2点。

1、家庭での役割(仕事)を作ってもらう。

そして学校と同じように、達成を支援してもらい、意欲を育ててもらう。

2、機会あるごとにいろいろな仕事があることを伝えてもらう。

例えば、一緒に買い物に行ったとき、食事に行ったときなど。

その際、「お仕事してくれてるねぇ」などと、

親が感謝の気持ちをもっていることが伝わるとなお、良い。

 

なんだ、言葉の使い方は稚拙ですが、何やら正論ぽいではないですか?

 

いや、へりさん、これからです(笑)

 

一番大事なことは、

特別支援教育でも、通常の教育でも同じなのだが、

働く人として、先生が、子どもにどう映っているかということ。

先に、要(かなめ)は体験、と書いたが、

子どもは日々、身体全体で、体験している。

なにを一番体験しているかというと、

先生の生きるエネルギー。

実は、子ども達は直感しているのだと思う。

なにを?

共にいる先生のエネルギー、

先生が何を大事にして仕事をしているのかを。

だから、

進路指導にかぎらず、

大事なことは、

何を教えるかというより、

どう教えるかというより、

先生が、どういう状態で仕事をしているかということだ。

先生が仕事に意欲を持っていれば、その意欲は子どもに伝わるだろう。

先生が仕事に喜びを見出しているならば、その喜びは子どもに伝わっていくだろう。

仕事にやりがいを感じているのであれば、そのエネルギーは伝わっているだろう。

 

最後に、

いい状態で仕事をするために大事なことの一つ、コミュニケーション能力について。

池上彰監修「なぜ僕らは働くのか」によると、

(略)・・コミュニケーション能力の高い人とは、どんな人のことをいうのでしょうか?友だちが多い人?人を笑わすのが上手な人?空気を読むのがうまい人?どれも合っているような気がしますが、どれも少し違うような気もします。「コミュニケーション」を辞書で引くと、「社会生活を営む人間のあいだに行われる知覚・感情・思考の伝達」とあります。つまり、「自分の意思を相手に伝え、相手のいうことを理解する」ことです。こう書いてしまうと、ごく当たり前の行為ですね。自分が思ったことをしっかりと伝え、相手が言うことをちゃんと聞く。それができればコミュニケーション能力があるということです。(同書p188)

また、同書では、コミュニケーション能力の活かし方として、次の2点を挙げている。

1 相手のことを思いやる

・言い方、伝え方を工夫する

・うなずいたり、あいづちを入れたりする

2 自分の意思を伝える

・賛否を表現する

・場の空気を読みすぎない(同書p190~191)

 

1については、先生方の多くが得意なことであると思うが、

2が苦手な先生が多いのでは、と思う。(先生方に限らず、日本人が、と思います)

なので、2についてもう少し詳しく。

・賛否を表現する

 自分が良いと思うこと、イヤだと思うこと、これらはきちんと表現することが大切です。

・場の空気を読みすぎない

 会話や議論がおかしな方向に向かったときは、意見を発信して流れを変えることも重要です。同調するだけではいけません。(同上)

 

おーい、飲んだくれ!

自分ができてこなかったのに、よく言うよ、まさしく暴論!!!

 

まあまあ、へりさん、

わたしは、大変な現場で働く、若き先生方が、少しでも、元気に活躍してほしいと心から願っているのですよ。

では、これにて失礼いたします。

 

 

 

 

 

 

 

鬼海弘雄 著「誰をも少し好きになる日」を読んで、かなり飛躍的に、思ったこと。

ある面

人の成長とは、

自我(脳)の拡大と言えるだろう。

自我が芽生え、広がっていくことが、大事。

 

しかし、自我(脳)は、他の自我にブレーキを掛けられる。

・・・○○をしてはいけません・・・○○をしなさい・・・○○は・・

そういうブレーキをかけれられながら、自我(脳)は真っ当な自我になっていく。

 

いや、まて、

真っ当な自我って何だ?

ではまず、ブレーキがかからなく育った自我(脳)のことを仮想してみよう。

例えば、

赤ん坊の時から、どんな要求も通り、

物心つけば、欲しいものをいつでも買ってもらえ、

長じても、苦労知らず、親の金で、わが儘放題に生活できるひと。

 

うらやましい!

 

そうかな、

私はそんな人がいたら、

鼻持ちならない、不幸な方だと思う。

なぜなら、その方にとって、周囲の人間は支配の対象でしかないと思うから。

 

赤ん坊は、自己の生存のために、世界を支配しようとする(らしい)

笑ったり、泣いたり、怒ったり、身体を動かしたりすることによって、

周囲の人間を自分の意のままに動かそうとする(らしい)

 

しかしだ。

大人には大人の事情というものがある。

ミルクを与えたり、おむつを替えたり、あやしたり、

大抵のことはかわいい赤ちゃんのために、やる。

しかし、仕事というものがあるために、いつもいつもかまってやるわけにはいかない。

また、幼児になると、あれがほしい、これがほしいと、言ってくるだろう。

しかし、使えるお金には限度がある。

すべての要求にこたえるわけにはいかない。

 

大人は、社会という制限(その中に文化もある)の中で生きている。

子どもは、身近な大人を通して、社会を知ることになる。

その構図は、太古の昔から、民族地域にかかわらず、あっただろう。

(日本においては、たぶん昭和の時代まで?)あったことだろう。

 

ここで、

鬼海弘雄 著「誰をも少し好きになる日」から、次のような1章を紹介したい。

 

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(著者が台湾に行った時のこと)

略 急に腹が空いているのに気づいた。

食べ物屋が並ぶ界隈を何度も往復した。 略 ありふれた飯屋に入った。歩道に出されたテーブルでは、サンダル履きの近所の年の離れた男たちが鍋をつつき、紹興酒を飲みながら大声で談笑していた。

奥の席には日用品が並んでいて、そこが飯屋家族のテーブルだとすぐに分かった。パジャマを着て髪にカチューシャをした十歳ほどの女の子が教科書で勉強している。換気扇がヘリコプターのような音を立てる厨房では、黄色いTシャツを汗で濡らした父親が中華鍋をリズミカルに煽っていて 略 

 店内の客の数にしては厨房が忙しいのは、通りがかりの人が料理を頼み、紙の箱に入れて持ち帰りをしているせいだ。しばらくすると、二階の住まいから婆さんと嫁さんが降りてきた。爺さんが息子に変わって厨房に立つと、婆さんへの特別料理を作り、それを食べ終えた婆さんが今度は、爺さんと息子夫婦の分を作り始めた。婆さんの両膝には頑丈にサポーターがまかれていて、ゆっくりと体重移動をしながら中華鍋を扱う。その動きから察するに長年膝を患っているのだろう。

 髪を七三に分けた爺さんは猫舌なのか野菜スープをふ~ふ~と息を吹きかけてゆっくり啜る。食事中に孫娘に勉強のことを訊かれると、冷蔵庫の上から分厚い百科事典を取り出してきて、婆さんと額を寄せあって調べ始めた。

 若夫婦客が勘定を払うと、爺さんは受け取った札を輪ゴムでくくってあった札束に加えて、ファスナーつきの尻のポケットにしまった。酒の酔いもあって、懐かしい昭和の時代に戻ったような気がした。歳のせいだろうか、その懐かしさは単なるノスタルジーだけでなく、未来につながってくれればとの願いも生まれてきて、その夜は、いつもよりは少しだけ人を好きになれるようないい気分になって店を出た。 略

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

この飯屋の家族は、決して裕福ではないだろう。

孫娘の個室は、ないのだろう。

けれど、きっと、みんなしあわせだ。

孫娘も、爺ちゃん婆ちゃんも、とうちゃんかあちゃんも。

 

大人は、社会という制限の中で生きている。

子どもは、身近な大人を通して、社会を知ることになる。

その構図は、太古の昔から、民族地域にかかわらず、在ったことだろう。

  

社会という制限は、ある意味とても素敵だ。

自我(脳)へのブレーキは、必要だ。

自我(脳)へのブレーキは、文化だ。

文化は、身体(からだ)をとおしてたちあらわれる。

 

文化をもってして、脳にブレーキをかけよ。

身体をもってして、脳の暴走を許すな。

 

身体なきスピもバーチャルも、文化なきそれも、人が人たる根源を奪う。