ユリシーズオンラインイベント 「なぜ、いま映画なのか」 『道 パッサカリア』をめぐって を見て

映画はほとんど見ない、

映画と映像作品の違いもよくわからない、

凡愚の私であるが、

原初舞踏を稽古してくださっている最上師と、

祝祭性0のボングジョークに付き合ってくれる飯田監督が関わっている作品であるから、

このオンラインイベントは見ました。

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そして

問われた。

 

人間が本当の人間であるということは、何をもってして、そう言うことができるのだろうか。

 

それがこのイベントで語られた「言葉」が私に突きつけた問いであった。

 

その言葉たちはまた、

未だかつて経験したことのない境地に導いてくれる、

未知の言葉たちであったので、

このトークイベントの感想を文章にすることは私には、できない。

かろうじてできることは、

断片的なものとして記すること。

以下、思いつくままに書いてみる。

 

最上師が創始した原初舞踏。

飯田さんが身体とメカを使って生成させようとするもの。

人類の霊性の、ひとつの到達点への2つのベクトルが出会い、

導かれたように出会ったもうひとつのベクトル。

それが、伴田良輔さんだった。

 

伴田良輔さんが映画制作の上での苦しみについて語っていたことは、

最上師がSNS上でよく呟いている原初舞踏におけるパッション(受苦)と同質なのだろうか?

 

0、01秒単位の編集と語っていたことは、同じく最上師が語っている、

0と1との間を無限に切り裂いていく、ということと同じなのだろうか。

 

最上師の原初舞踏は舞踏と名乗ってはいるが、いわゆる舞踏ではない。

飯田さんがカメラで写し、編集するものは、映像作品と名乗ってはいるが、いわゆる映像作品ではないだろう。

伴田さんはこの映画を作るにあたって、既存の方法を一切排除してきた旨のことを語っていた。

伴田さんのこの「映画」も、いわゆる映画ではないのだろう(私は21日に見に行きます)

 

稀有な創造性が既成の言葉たちを遥かに超えていく、その現場近くに身を置ける幸せを感じる。

 

そして、このトークイベントで語られた言葉たちでさえ、創造の言葉であるにしても、生成の現場の、おぼつかない映し絵でしかないのだろう。

私個人としては、映画を見にいく前にこのトークを聴くことができたことを、ありがたいと思っている。

映し絵でさえ、これほどのものだったのだからと、生の体験をとても楽しみにしている。

 

写し絵などと、とんでもないことを言ってしまったが、ご三人の言葉たちは、語ることのできない霊性に限りなく近づいている言葉たちなのだろう。

だからこそ、私も問いを持つことができた。

 

人間が本当の人間であるということは、何をもってして、そう言うことができるのだろうか。

 

もっとシンプルにこう問うこともできる。

 

本当の人間とはいかなるものか。

 

最後に、

司会の出津さんが「聞き惚れてしまいました」と言っていた、最上師の言葉は圧巻だった。

長年原初舞踏を稽古してきているにもかかわらず、最上師のSNS上の言葉を読んでも今ひとつ理解できないボンクラの私なのだが、語られる言葉は身に積もっていく。

今回は特にそうだった。

最上師の語る言葉を筆記することで、原初舞踏論といった、まとまった形での書籍等ができないか、などとも思った次第です。