緊急事態宣言を受けて、検問の取り組みが行われている県が増えてきているという。
もちろん、「法的に検問はできない」のであるから、各県がそれぞれ工夫し、コロナの拡散を防ごうとしているのだ。
なんだか、「翔んで埼玉」(名作である)を思い出してしまうのだが…
コロナの終息を祈るばかりである。
さて、そのたぐいの記事をフムフムと読んでいると、気になる出来事があった。
いくつかの県で、県外ナンバーの車に対しての嫌がらせが起きているというのだ。
こりゃあ、やっている奴は、正義の味方のつもりだなと思った。
正義といえば、ずっと気になっている事件がある。
植松聖死刑囚による大量殺人事件である。
殺人犯本人が、自分の犯行を「正義の行為」と主張するのは、やまゆり園事件に限らず、よく散見することだ。
しかし、私が驚き、危惧することは、驚くべきことに(とても驚いているのである)、植松死刑囚が起こした大量殺人事件に対して、「正義の行為」と捉える人が少なからず存在するという。本当に恐るべきことだ。
人それぞれ考えることは自由だし、人の考えは尊重すべきだ・・・わかっちゃいるよ、正論。だけどなぁ、
正論なんざぁ、しったこっちゃねぇぇぇぇぇ、と怒っているのである。
植松死刑囚に関することについては、機会を改めて考えてみたいと思う。
今日の話題だ。
県外ナンバーに悪さをする。その動機が気になる。
きっと彼らは、(みんなのためにやってあげている)と思っているのじゃないか?
やらかした事の重大さにおいては比べることは到底できないのだが、いやがらせをした動機は、植松死刑囚のそれと似ているのではないか?
その根拠を考えてみたい。
植松死刑囚は重度重複障害の方をとても恐れているのだと思う。
嫌がらせをする人はコロナを恐れているのだろう。
当事者にとってはどちらも、「得体の知れないもの」なのだ。
人は「得体の知れない」と感じるものに対して、「恐れ」を感じる。それは私も、だ。たぶん、生き物としての人の本能のようなところがあるのだろう。
「得体の知れないもの」→「恐れる」→「逃げるor戦う」たぶんこんな感じ。
そして「逃げるor戦う」の選択をするとき、人は、「みんなのため」と思ったら、戦うほうを選ぶことが多いのではないだろうか?
彼らはみんな(同県民)のために、自分たちに危害を加える相手(ウイルスを持ち込むかもしれない他県民)を攻撃したのだ、としたら…
でも「みんな」も、「(ウイルスを持ち込むかもしれない)他県民」も仮想である。
県民の誰も、県外から来た人によって、目に見える被害は受けていない。
今は当たり前の日常を取り戻すために、協力して対応していく時だ。
その時に必要なものが、生身で向き合った人間同士で交わされる「言葉」だ。
嫌がらせをする前に、人だけが使う「言葉」によって。「県外から来てほしくないことを」を伝え、「来ないように」お願いしてほしい。
今必要なことは仮想の正義ではなく、生身の言葉である。