舞踏を、なぜ稽古しているのか。
うまく言葉にできないでいるのだが、
ノートの切れ端一枚に書いてあった、
まだ青春といっていい頃の文章に、ああそうなんだなぁと思えるものがあったので、自分のために書いてみる。
以下
楽になった。○○と○○がきっかけになったと思う。
人に対する憎悪がかなり消え、いろんなひとがいるんだなと、
見る人ごとに感じられるのがうれしい。よかったな、と思う。
苦しかったからな。
いとおしくて、受け止めたいのだけれど、怖くて、それでも受け止めようと長い間あがいていた。
だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、だめだ、そんな自分じゃ、こんな自分じゃない、こんな自分じゃない、こんな自分じゃない、俺はもっとちがう、もっとちがう、特別な何かがあるはず。
こわばりが俺を縛り、世界は俺から遠かった。いやだった、いやだった、いやだった。
けれど俺は、たくさんの人にほぐされた。もちろん俺もがんばった。けど、がんばりすぎて疲れた。
俺にやさしくしてくれた人がたくさんいる。
俺は今、人を俺の中に感じられることがとてもうれしい。人をそのまま俺の中に受け止めていいることが、とてもうれしい。
俺はもっともっと好きなようにいきたい。人を自分の中にうつしながら、生き物を自分の中にうつしながら、
木を、草を、花を、風邪を、雲を、水を、
怠惰やせこさや弱さや汚さ、
俺はどこまでうつしていけるのだろうか。どれだけうつしていけるのだろう。
俺は俺のことも、もう少し素直にうつせると思う。
・・・・・・
そうか、私は、うつしたかったんだ。
うつすはひらがなだったので、たぶん、移すや、映すをイメージしていたのだろうか。
この時は表現のこととか、全く考えていなかったのに、無意識では表現の欲求があったのだろう。
今では、人の尊さ、かけがえのなさ、やさしさもうつしたい、表していきたいと思っています。
私的メモになってしまい、すみません。