難しい話になりそうである。
しかも
論理が飛躍しまくりなのである。
まあ
ブログなので勘弁してね。
まずは、
「子ども」の話。
唐突ですが、
「子ども」というものは、
ある時期に発見されたもの、らしいです。
それまで、「子ども」という概念がなかった、
「子ども」ではなく、「小さな大人」、
子供服は当然なかった、おもちゃもなかった。
「子ども」という概念は、近代自我意識のネガとして
発見されたものだということです。
心理学者の、岸田秀氏は次のように書いています。
・・・
子どもというものが近代において発見された現象であることはよく知られているが、
論理的に言って子どもの発見はおとなの発見と同時であろう。子どもはおとなの発見と同時に、おとなではないもの、いわばおとなのネガとして発見されたのである。発見者は自分をおとなだと思った人間である。子ども自身が、おれはおとなとは違う子どもだと言い出したわけではない。この発見者は近代ヨーロッパ人らしいが、子どものほかに、子どものほかに自分とは異質なさまざまなものを発見した。文明人でないところの未開人、正常ではないところの異常者。
そして、子どもをおとなに「発達」させるために教育制度をつくり、未開人を「文明化」するために植民地をつくり、異常者を「治療」して正常者にしようとした。
・・・
『海』臨時増刊『子どもの宇宙』中央公論社 1982年
岸田秀『子どもとは何か』p194
このころから岸田氏の物言いは過激ですな、まあ、それはいいとして、
岸田氏の言っていることは、
「概念としての子ども」というものがある時期、
人々の集合意識として定着したということですな。
次に
「発達」としてイメージされた「子ども」について
意識というものはイメージとして定着するものなので、
この「概念としての子ども」に、以後様々なイメージが与えられるのですが、
現在は「可能性」を経て、
「発達」として強くイメージされていると思います。
「子ども」を「発達」でとらえるためには、道筋や段階が必要となります。
道筋や段階のモデルになったのが、「現行の秩序体系」です。
「発達」とは、現行の秩序体系への適応の過程なのです。
学校とはそれが行われる場所。
公務員として、国家が決めた適応のための「発達課題」を子どもに課す。
そして、「到達度」を評価する。
それが、教育公務員の仕事。
なるほど、これが私が疲れる一つの原因だったのですね。
すると、発達障害とは、秩序体系への適応に障害があるということ、になりますな。
今日も、外出自粛なので、「現行の秩序体系」について考えてみようっと。