教育という仕事はもっともオプティミステックな確信によって支えられている。

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山福康政 著 『ふろく』より


外に出ない。

部屋の整理。

すると、見つけた。

大学4年生の頃、書いたもの。

以下。

・・・

教育という仕事が、もっともオプティミステックな確信によって支えられなければならないものだとしたら、僕にとっての確信とは僕たちの古層に脈々と流れる、太古以来の水脈であり、それの、今ここでのあらわれである。人間の<知>は徐々にそれを明らかにしてくれるように思うけれども、それとは別に、僕たちはいつでもそれをあらわすことができると思っている。

・・・

おい!

わかんねえだろ!

すみません、若毛の至りもいたり、毛がふさふさの頃の文章でして・・・

ふさふさか・・・ま、それじゃしょうがないが、もう少し説明しろ。

 

(わたくしは、百田尚樹ではありません、念のため)

 

では、お言葉に甘えまして。

 

古層に脈々と流れる、太古以来の水脈とは・・・、

山や海に行くと楽しい、

焚火をしたり、野外料理を作って食べたりすると楽しい。

海で蟹を見つけて捕まえると楽しい。

キャンプして、森の目覚めとともに目が覚めて深呼吸すると嬉しい。

または、

ちょっと昔にはあった、こんな風景。

親の目の届かないところで、年齢の異なる子どもが群れをなして虫を取り、穴を掘り、貝殻を集め、木の実を拾い、気に上り、雑草を引っこ抜き、土や砂をこねくって泥んこ遊びに夢中になる。

特定の大人に教えられるのでもなく、遊びやルールーや歌を伝承していく世界。

 

ふむ、少しはわかったが、キャンプはともかくとして、そんな時代じゃないだろう。

 

そうなんです。

私は教師になる前に、こんな思いを抱いていたので、

無謀にも、教育公務員としての仕事ではないことをたくさんしようと試みたのです。

 

そりゃ、無謀だったな、だから飲んだくれになったのか?

 

いや、飲んだくれはそれ以前からでして、加速したというのはありますが…。

 

で、なにをやったんだ?

 

劇、休みの日の冒険、変わった体育(トロプス)、体をぶつけあう外遊び(Sけんやケイドロ等)

特に劇はたくさんやりました。

 

教育公務員たるものが、出すぎた杭になれるわけでもなく、

中途半端に、変わったことをやろうとしたわけだ。

 

はい、おっしゃるとおりです。

 

わかった、その結果がどうであったかは、

お前のそのしょぼくれた顔に全部書いてあるからな、あえて聞くまい。

で、どうなんだ?そのおもいとやらは、あきらめたのか?

 

いや、あきらめてはいません。

先の文の後に、このように書いてありました。

・・・

(人間の・・・それを明らかにしてくれるように思うけれども、)

それとは別に、僕たちはいつでもそれをあらわすことができると思っている。

・・・

いつでもか?

 

はい、いまでは、なぜ、身体にこだわり、身体に取り組んできたか、少しはわかってきました。

身体こそが、古層に脈々と流れる、太古以来の水脈であり、それの、今ここでのあらわれである、ということが。

 

最後の最後でまた小難しくなって、今日はもういいが、いずれ、分かるようにしてもらえるのだろうな。

 

はい、いずれにはなりますが、必ず。

 

わかった。楽しみにしていよう。