一冊の本
「もうひとつの日本地図」野草社:80年代編集部編
全国各地の、今でいう、ロハス的な、
ユニークな取り組みをしている集団を紹介している本であった。
その本の中で紹介されていたとんでも(なくすてきな)集団は156ヶ所。
この本を頼りに、行ってみたいところに、勝手気ままに出かけた。
1980年代後半のことである。
そのなかのひとつ
大池市民施設&ミティーラ美術館に行った。
1988年夏のこと。
本に、こんな風なメッセージが載せられている。
・・・星が無数に現れ、あるいは立体の月が現れる。そのことによって我々は、宇宙にあるという実感をもつことができる。18世紀以降のテクノロジーの急速な発展は、我々の住む場を次第に人工物で固め、巨大な都市は人為の城と化し、草木、四季の移ろいといったものだけででなく、星、月に至るまで我々から隔絶してきた。
(中略)
併設されているミティーラ美術館は、ミティーラ画の収蔵400点。その質と量は、インド政府から世界一と評価されるもの。
(後略)
バカさと行動力満載の、若毛の至りの私は、
この地を訪ね、長谷川時夫さんと出合った。
廃校が、
原始の自分を取り戻すという、大いなる野望を実践する場所としてよみがえった、
その場所で、次々に流れる星を見た。
校庭に寝転んでいると、つぎつぎに、星が流れる。
ながれた!
数十秒後、
ながれた!
・・・・・・次々と
そんなペースで流れ星を見たのは、空前絶後。
寝転ぶ大地と、満天の星空。そして俺。
すべて、そこにあり、ほかには何もなかった。
「いいときに来たな。」
長谷川時夫さんが言った。
その後、時夫さんの話を聞いた。
熱く、無謀とも思える、時夫さんの思いに、
若毛の私のこころに熱いものがたぎった。
青春の淡い恋なんかもあって、
ミティーラの思い出は、
ずっと、色あせないでいた。
そして、約30年後の夏
大池を訪ねた。
それは、偶然である。
たまたま
家族で長野に行くということになって、
ミティーラ美術館の近くまで来たので、行くことができた。
まだあるのだろうか、
長谷川さんはご存命なのか、
心配だったが、
けっか、
美術館はまだあり、
長谷川さんにも合うことができた。
約30年前に宿泊させていただいたことを伝えたが、
さすがに覚えてなかった。
でも、時夫さんが元気でいらしたことが、
うれしかった。
いろんなところが変わっていたが、
30年前の光子は、大池の地に、まだ、あった。
私の身体の中にも、その光子はあって
大池の時に溶けていったことが無性にうれしかった。