にせものと、ほんものの話し。その2

 

にせものと、ほんものの話し。

私が世界と認識している、それは、

ほんものなのか、

にせものなのか。

 

これはこれで相当難しい問題らしい。

なので、

一歩引いてみましょう。

 

今ことさら自分の中で、

話題にしていること、、

 

それは、

自分の人生は、

本物と言えるのか、

偽物なのかということ。

 

ずっと、劣等感を持っていきてきた。

私の人生は、

にせもの。

私は、

インチキ野郎(ライ麦畑でつかまえて、より)。

 

本物が何たるかをわかっていないにもかかわらず、

私は、インチキ野郎だ、と直感できた。

 

ほう、それは、まぁ、私にもあったよ。

ようするに、思う存分生きている、という実感がないということだね。

まぁ、こんな時代だけど、戦乱の時代ではないからね。

 

へりさん、そうなんですが、

わたしがずっと、心に感じながらも、

言葉にできなかったことを言葉にしている人がいたのです。

 

そんなひとが…それは、おもしろいね。

 

でしょ。

では、引用します。

以下

・・・愛と好奇心が消失してから、何をやっても「自分はホンモノではない」

「自分はニセモノである」という劣等感がついてまわるようになった。

「ホンモノ」の定義ははっきりしている。それは、ある行動の「結果」ではなく

「動機」に関わるものである。

すなわち、自分がそれを好きで仕方なく、

それさえしていれば、時間がいくらでも過ぎていく、

それのほかには何もいらない。

それなしでは生きていかれない。いつもそれのことばかり考えている。

それに携わっていれば自分の奥底から、得体の知れない情熱と集中力が湧き上がってきて、それ以外の雑念はすべて洗い流されてしまう。

そういう対象に時間を費やしている人は「ホンモノ」で、そうでない人は「ニセモノである」

(後略)

引用以上 高村友也著「僕はなぜ小屋で暮らすようになったか」より

 

私は、本物であることを求めているのだなぁ、と思った。

しかし、やっていることはそうではない。

偽物の上塗り。

だから、落ち着かない、あせる。

 

きみは、なにゆえ、ほんものであろうとする?

そのほんものとは、他人の評価と関係ないところで生じるのだよね。

だったら、君にとって、本物であろうとするのは、難しいだろ。

 

それでも、やらなくては。やらなくては。やるんだ おー

 

あれ?

わたしはかたまっているぞ。

決意の塊。

なにがなんでも、

ホンモノになってやろうじゃないか。

ホンモノの塊だぁ。

 

もしもーし

飲んだくれ、また同じパターンだよ。

いい加減学習しろよ。

「まだ、固まってません♡」って、

やさしく言ってみたら、どうだ。

 

そ、そうですね・・・

私、固まっておりました。

 

ゆったりしたら、たぶんわかります。

 

ではでは、ご機嫌よろしゅうございます。