コロナの障害をどう考えるか?

世の中が見えづらい。

いや、

コロナとかのせいではなく、

老眼のせいだ。

眼鏡をとったりつけたりで、対応している。

で、ふとおもった。

 

老眼は障害なのだろうか?

 

今、確かに私は、読書に支障をきたしている。

新聞を読むのにも、不自由がある。

 

私は、目が不自由な人で、見ることに障害がある人なのだろうか。

 

 

年齢だから仕方ないのかもしれないが、 

このところ、いろんなところの衰えが目立ってきている。

できないことが、増えてきている。

 

ここで、また、考えた。

 

わたしだけの話ではないのだ!

 

このコロナ騒動で、

できなくなったこと、

不可能になったことが、

たくさんある。

 

そんなことを思っていたら、

FB友達の安藤さんがこんな記事を

FBにアップしていた。

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なんか今回のコロナ騒動で僕は思うことがある。
このコロナ騒動の中で今までやっていた仕事や活動ができない人が沢山いる。
飲食店や接客業なんて店も設備もバッチリあり能力も腕もあり冷蔵庫には食材もあるのに、料理を作って提供できないとか。
冠婚葬祭業も準備万端全て揃ってるのに式をあげるお手伝いが全くできないとか。
教育機関もリアルに向き合ってイレギュラーを拾いながら授業ができないとか。
福祉施設介護施設や病院に親族が入ってる人は全く面会できないとか。
美術館やギャルリーやコンサートや演劇とか人が集まる文化的活動も作品や楽器や設備や機材も人材も揃ってるのに開催できなかったり。
ジムやスポーツ施設だって設備や人材も全て揃ってるのに何もできない。
宿泊業ももてなす準備は揃ってるのに今までのようにお客さんをもてなせない。
新幹線や飛行機だってほとんど人が乗らなくて、その能力が全く生かされてなかったり。
なんか、多くの人が自分が身に着けた能力や生産性を発揮できない状態に置かれてるんだよね。
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で、安藤さんはこの状況を、こんなふうにとらえる。
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そんな状況の中、それでもみんな1つの命として魂として日々存在してなければならない。
存在するって本来どういうことなのかという問いかけに沢山の人が向き合っているんじゃないかと思う。
それって山本太郎が言ってた、生産性で人の価値を測るな、人はそこに命と魂があることが存在の原点で、そこのところでお互いを認め合う社会にしたいっていう意識と近いのかもしれない。
存在という意味で、難病患者の舩後さんや重度身体障がい者の木村さんはじめ多くの障がい者の気持ちに多くの人が自分ごととして少しだけ近付けているのかなって思ったりもする。
このコロナ騒動に翻弄される中で、以前の世界や生き方に戻ることに意識を奪われるのでなく、存在の原点の意識や気持ちにアクセスできた人は幸いだろうなって思う。
全てが揃っていて手放しで機能してた世界から、全てが揃ってるのに何もできない世界へのシフト体験は、存在の根本的価値や生きる根本的意味に気付くチャンスでもあるかもしれない。
この先の世界の可能性を思う時、そういう意識を持った人が沢山いる事が新たな社会を創造するキイになるような気もする。
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存在の原点の意識や気持ちって何だろう、
存在の根本的価値や生きる根本的意味って何だろう。
たしかに、安藤さんの言うように、
今は、それを考えるいいチャンスなのかもしれないな。
 
NPO法人「抱樸」を運営し、路上生活者の支援にあたっている奥田さんはこんなことを言っている。
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新型コロナウイルスは、全ての人を当事者にしました。お金持ちも貧乏人も、有名人も政治家も、誰もが感染リスクを負いました。

もしかするとこのコロナ禍で、人々は忘れかけていた普遍的な価値を取り戻し始めたのかもしれません。

それは「いのち」です。すべての人が死に怯えながら「いのち」のためにできることをした。経済至上主義の中、生産性を追求し続けた私達は、なには無くとも「労働」に熱心でした。

その国民が、感染リスクにさらされる中で会社を休み、出勤を止めました。やればできるではないか! 今更ながら「いのちあっての物種」と気づいたのです。

これは新型コロナが与えた数少ない「良かったこと」だと私は思っています。

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いのちが普遍的価値、

では、いのちってなんだろう?

うーん、

この時期に、考えるべきことは多いな。

まずは、老眼をどうするか、、、

 

一発改善の、高い薬でも買うか、

ってそれは絶対違うだろう。