今までちゃんと付き合ってこなかった感情さんたちと…お付き合いしてみようかな、還暦なのだ。

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その先には何があるのだろう


私は

飲んだくれ

なぜかというと、

飲んでいるときは、

脳内のおしゃべりがやむから。

それが私の飲んだくれである理由の一つ

 

以前ほどではないが、

脳内おしゃべりがうるさい。

気がつくと、何かしら、しゃべっている。

 

かつては、

やめられない、止まらない、

どこまでいくの、脳内おしゃべり?

 

今は、少しなら抵抗できる。

 

そして最近、

あることに気がついた。

 

それは、

脳内おしゃべりは、

防波堤だったのだ。

 

ある日、

脳内おしゃべりを止めてみようと試みた。

 

すると、

 

悲しくなるではないか。

悲しくなるのだ。

目が潤んだ。

なんだ、

これは。

 

おしゃべりが再開されると同時に、

それはなくなった。

はた、と思った。

 

そうか、

感情が溢れ出す、

その防波堤だったのだ、

私の脳内おしゃべりは!

 

そして確かに、

感情があふれているとき、

脳内おしゃべりは止んでいる。

 

 

きっと、私は私の感情を恐れていて、

感情が溢れ出すのが、

怖いのだ。

 

こんな感情に身を任せたら、身が持たない。

そう、脳様が判断し、

おしゃべりを始める。

 

しかし、それはそれで、苦しい。

なので、脳をマヒさせるために飲んだくれていたのだが、

最近は、感情さんとも、上手に付き合うほうがいいと思ってきている。

 

さて、

どんな感情さんたちなのか。

お付き合いするのならば、

ある程度、お相手のことが分かっていた方がよいではないか。

 

いきなりお見合い、

大昔はあったかもしれないが、

さすがに、お相手の顔写真、

プロフィールなどは事前に知っての、お見合いであろう。

 

どれ、どれ、

お相手はどんな感情さんなのだろう。

 

まずは、

「恐れ」さん。

顔が広い。

情報通。

いろんなところに首を突っ込んで、情報を集めてくる。

後ろ盾は、自己肯定感の低さ。

好きなことは、引きこもること。

 

次は、

「悲しみ」さん。

じつはふたりいて、兄弟だ。

ひとりは、「私的体験」という場所で生まれた。

もうひとりは、「アーキタイプ(原型)」という場所で生まれた。

兄弟だけど、

生まれた場所が違う。

二人はとても良く似ているが、

二人の違いは流れる涙によって判断できる。

身体の動きにともに流れる涙の時は、

私的体験出身悲しみさん

静かにあふれてくるのが、

アーキタイプ出身悲しみさん。

いずれも、涙という結晶になって、

昇華されることが多い。

 

その次の感情さんは、

「怒り」さん。

攻撃的で、敵味方見境がない。

自分も相手も傷つけようとする。

得意技は、隠遁の術。

こっそり姿を隠すが、

見えていないだけで、

しっかりそこにいて、

破壊作業を行っている。

苦手なものは、笑い。

 

 

こんな感情さんたちだが、

実は大事な、

大事な、

 

かつての私には難しかったけれども、

今なら少し、感情さんたちと付き合えるかもしれない。

 

どの感情さんもさびしがりやだから、

ちゃんと付き合えば、

きっと喜ぶ。

 

そんな気がする。

 

還暦になるってことは、

付き合う必要のあった方たちで、

今まではちょっとご遠慮していた方と、

付き合い始めてみることなのだろうか、

そんなことを思っているのであります。

私は私、それ、ほんとうですか。?

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私とはなんだろう?

 

 

おーい、飲んだくれ、

いきなり俺の出番になってしまうじゃないか!

一体どうしちまったんだい?

 

私は1人ではない、ポジさんだって、ヘリさんだって、実は私・・・

 

おいおい、飲んだくれ、

それをいっちゃあ、おしメェよ、じゃないのかい!

 

いや、ポジさん、それは皆さん、気づいてらっしゃることで・・・・

 

私、対する人によって、

自分の感じることや考えることが違う、態度が違う、そんなことじゃいけないのではないか?

そう思っていたのですが、、、、、

 

飲んだくれ、

それ、昔の話ですよね?

飲んだくれも知っていると思いますが、

平野啓一郎という作家さんが分人主義という考え方を表明しています。

 

今度はへりさんですか。

 

そうなんですよ、

私も、そういう考えを提唱している人がいるのを知って、

まさに私の考えだ!

と思いました。

 

分人主義というのは、

・・・・・・・・・・・

自分というものは、他人によって引き出される存在です。だから、「本当の自分」というものは存在せず、「子どもと接しているときの自分」も「かしこまっているときの自分」も、すべてが「自分」なんだという考え方が、「分人主義」です。

・・・・・・・・・・・

今は、自分というものは、他人が存在するから、存在する、

そう思っています。

別に謙虚を装っているわけではありません。

 

他人の言動に、振り回され、苦しい思いをしていた頃、

ふと、私は他人によって形作られているのかも、

と思ったのです。

 

なぁんだ、、、、

「自分はこうなんだ!」

そんな自分なんていうものは、

「ない」んじゃないか!

 

私はそのとき、そのときの状況によってたえず、

変わっていた!

 

そう思えたら、逆に、

息詰まって苦しい気持ちが、

結構楽になっていました。

 

考えてみれば、

自然界の全てのものは移ろっていく。

四季でかわり、

年月でかわり、

環境によって変わっていく。

人も当然そうなのだろうな。

 

確固たる「自分」が、

どんな時も、

どんな人に対しても、

信念をもって向かい合う、

それが大事。

 

確固たる自分がないから、苦しむ。

確固たる自分を見つけることができたら、

楽になる、きっと。

 

そう、思っていました。

 

 

脳の大きな役割の一つが、

自己同一性を保つ、

です。

だから、あらゆる手を使って、

思い込ませた自己を崩させないようにする。

それが脳の役割らしいです。

 

その頃の私は、

脳様の言うとおり、

自己同一性の強化をしておりました。

 

しかし、それがあまりに、楽ではないものですから、

自分なんて苦しいだけだから、もういらない、

ふと、そんなことを思いました。

 

他人によっていろんな自分が出てくるのは、

面白いじゃあないか、

流れにまかせて、

出会いを楽しめばいいじゃないか。

 

そのような気持ちになりました。

 

そして後日、

平野啓一郎という人が、分人主義ということを提唱していることを知ったのです。

 

考えてみれば、昔は、

人生の節目節目で、

名前を変えていた。

それはもしかしたら、

名を変えることによって、

変身しようとしたのではないでしょうか。

 

人が、他者(この場合、人に限定されません)によって変身できる。

これは、私にとってはとても魅力的なことに思えました。

それが、演劇に興味を持ったきっかけの一つであり、

舞踏に惹かれる理由なんだろうと思います。

 

しかし、脳は頑固。

 

本当の自分はない?

そんな恐ろしいことが許されるはずがない!

自分が何者でもないなんてことが、

耐えられるはずないじゃないか。

私は、私だから、

かけがえがないのだ。

かけがえのない自分を探し、

成長させていくのが、

私の使命。

確固たる自分を持たなくて、どうやって世間の荒波を渡っていくことが出来る?

 

いや、脳さん、

実は変身できるからこそ、

荒波を渡っていくことができるのですよ。

 

私の脳は以前頑固ですが、

変身願望の方が最近はやや優ってきておりますので、

これからが楽しみでございます。

学校現場に変形労働時間制が導入されたら、どうなるか?

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図に表すとこんな感じらしい。


変形労働時間制というものが、

来年度から導入されるらしい。

それって一体何?

変形労働時間制とは、

ある忙しい時期の平日の勤務時間を延ばして、

閑散期の日の勤務時間を短くする、

あるいは休みを取れるようにする仕組み、ということらしい。

文科省はなぜこれを導入しようとしたのか。

表向きには、働き方改革、の一貫である。

教職員になろうとする若者が少なくなっている、顕著らしい。

それではいかん、ということで、

普段の勤務、どうせ、早く帰れないでしょう、

だったら、それを勤務時間としてカウントしましょう。

そして、その分、夏休み休んでくださいな。

教員になったら、夏休みにたくさん休めますよ。

みなさん、教員っていいでしょ?

まぁ、

そんなことを考えた人がいるのかもしれない。

あるいは、

教員の皆さんの残業時間が問題になっている、

いかんぜよいかんな、それはいかん。

しっかり勤務時間としてしまえば、

残業時間が問題となることは、なくなるだろう!

我ながらいいアイディアだ、ふふふ、

なんて思っている人がいるのかもしれない。

なにせ、

制度上は、最大で一日10時間勤務にまですることは可能、

だそうだ。

うーーーーん、

うむむ・・・

これじゃ、

長時間労働が、適正な勤務時間になってしまわないか。

教員は99、9%が、真面目な方だから、

適正な時間は、時間いっぱい頑張る人が多い。

働きすぎですよ、って言われたって、

そう言われても・・・・・・・・・・

とひたすら、仕事に取り組む人が99、8%

それが教員、

です。

 

だって、休憩時間に休憩している人は、

いないなぁ。

みんな仕事している。

ボーッとしているのは私くらいだ。

それに、夏休みだって、仕事がいっぱいで、

休みが取れないのが実情です。

かくいう飲んだくれの私でも、

1年の半分を終わろうとしている今、

有給の消化率は20%を切っています。 

なんじゃいこりゃぁぁぁ、

とは思うのですが、

みんな頑張って働いているのに、病気でもないのに、休みを取るのは、いかんのではないか???????????????????????????????????????

と思ってしまうのです。

忙しい時期には勤務時間が現行の7時間45分から最大10時間まで可能????

それは、10時間、働けってことでしょう、

さらに、

休憩時間が実質ないのだから、勤務時間は実質約11時間だぁぁぁ、時間外勤務はゼロカウントだぁぁぁ!!!

 

働き方改革?まぁ、日本人忘れやすいねぇ。文句言わないし。

ということでしょうか?

さらに、みんなが、みんな、私のように、お気楽なお年寄りではない、

育児や介護等に時間を割く方が大半だろう。

その方達は時間給を取ればいい、と言われるかもしれないが、

休みを取りづらいのが教員社会ってもんでしたよ。

同調圧力っていうんでしょうか??

定時では帰りづらかった、部活動の顧問を断れなかった、

私だけではないはず。

繰り返しますが、夏休みだって、部活動の大会や研修、補習等が目白押し。

休めませんよ、現状では。

実際、休みなのに、出勤して働いている、というのは、

あ、あなたも、オタクも、あ、俺もでした。

そういうことはたくさんありました。

それに、管理職の仕事も確実に増えると思いますよ。

いいこと、なさそうですよ、

変形労働時間制の導入。

「世界は贈与でできている」を読んで

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生きていくのは

ああみっともないさ

あいつが死んだときも

おいらは飲んだくれてた

・・・・・

拓郎の

「おきざりにした悲しみは」より。

 

飲んだくれの私だが、同じ経験はない。

しかし、みじめだと、自分をなじることは、

数知れずあった。

 

そんな時、ふとおとずれたもの。

それは、わたしはたすけられたな、

たすけてもらったなというおもい。

そして、

あたりまえだと思っていたことが、

本当は、かけがえのないことだったのだな、

という思い。

 

しかし、同時に思う。

こんな私に、どうして?

 

私はそれを与えられる資格がない、

それなのに。

 

 

「世界は贈与でできている」

という本を読んだ。

近内悠太という人が書いた本だ。

いろいろな意味で、

難しい本だが、

著者の思いに共感したので、

 この本の感想を書いてみたくなった。

 

・・・・・・・

 

死んだら、贈与という、奇跡のループを、もう体験できない。

ぎりぎりと、どんなにみっともなく、みじめであっても、

生きているからこそ、

生きていれば、

きっと、身の回りの全てのあたりまえが、

かろうじてそこにある奇跡であり、贈与なのだったということに、

気づく可能性がある。

 

生きていれば、

世界は贈与に満ちているということに気づく可能性がある。

 

世界の多くが自分から離れていると感じる人ほど、

死の近くにありながらも、同時に、

「すべてよし」の生命のうずのすぐ近くにいる。

だから、生きよう。

生きて、

贈与でできているこの世界の、

醍醐味を味わおう。

 ・・・・・・・・・・・

まったく、

本当に全く持って、

自分勝手な感想でありますが、

教育者でもある近内氏は、

「世界は贈与でできている」で、

そんなことを願い、この本を書いたのではないかと思えるのです。

 

伝えたいことが盛り沢山すぎたり、

まどろっこしいところもありますが、

機会があれば、ぜひ手に取って、

若き思索者の情熱にふれてみてください!

 

 

田村由美の仕事観(かなり飛躍した推理ではあるが)ミステリと言う勿れの整くんのセリフから 

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「ミステリと言う勿れ」

田村由美の漫画だが、

こんな言葉が出てくる。

主人公 整(ととのう)くんのセリフだ。

・・・・・・・・・

お店とかに入ると

いつも思うんですけど

 

テーブル イス この鉄板

ガラスのコップ お皿

お箸 箸袋

全部

違う人たちが作ってるんだよなあ

・・・って

 

このメニューも

印刷した人

そのインクを作った人

紙を作った人

 

調味料を作った人

容器を作った人

 

このお肉を育てた人

さばいた人

 

その刃物を作った人

すべてを運んだ人

 

全部違うんです

 

建物自体だってそうです

さらに

それらを作る

機械を

作る人

ネジ一つ一つを作る人

 

きっと別々です

すごくないですか?

 

いつからそんな風に

たくさんの仕事ができたんだろう

 

どうやって見つけて分け合ってきたんだろう

 

それがここに集合してるって

 

奇跡みたいなものだと思うんです

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とても面白い漫画だが、今日はその話ではない。

 

ちょっと前まで、

物を売りにくる人たちがいた。

 

娘がまだ小さかった夏、

近所を散歩していると、

歩いてアイスキャンディを売っているおじさんがいた。

娘に買ってやろうと、

おじさんにアイスを二つ頼むと

結構アイスの値段が高く、

つい

「そんなに高いんだ」

と言ってしまった。

おじさんは、「うちのアイスは、そこいらへんで売っているアイスとは違うんだ!」

と怒ってアイスを首から下げていたボックスの戻してしまったので、

味わうことができなく、娘にも申し訳なかったのだが、

それ以上に、おじさんを怒らせてしまった事を

後悔している。

スーパーとかではもっと安く買えるのだが、

おじさんのアイスキャンディーを、

楽しみに買う人が少なからずいたのだろう。

 

楽しみにしていたといえば、

近所に牛乳を売りに来ていたこともあった。

「牛乳、新鮮な牛乳はいかがですか!」

という声が聞こえてきたので、

娘と2人で見にいった。

すると、車で牛乳を売りにきていつおじさんがいたので買ってみると

その牛乳は、とてもおいしかった。

それからしばらく、

娘1人で買いに行ってもらったりしていたのだが、

声がしても数回行かなかったら、

いつの間にか来なくなった。

このこともちょっとさびしい思い出だ。

 

その頃のことだと思う。

車で行くとなんでもないところなのだが、

とても勾配のきつい坂道があった。

その坂道で、自転車で豆腐を売るおじいさんを、よく追い越した。

朝、6時台だったと思う。

自転車の後ろの荷台に大きな木の箱をつけ、腰にはラッパを下げていた。

70後半はゆうにいっているおじいさんだった。

しかし、その自転車を漕ぐ足取りはとてもしっかりしていて。

自転車と、荷台と、ラッパと、荷台と、おじいさん、

豆腐屋になりたての頃から、ずっとその風景はあったのだろう。

この人も豆腐はとても美味しいのだろうな、と思った。

ついにその人の豆腐を食べることはなかったのだが、

今も、おじいさんの豆腐屋さんはあるのだろうか。

 

みんな、つい25年ほど前の話である。

なんでこんな話を、整くんの話の後に書いたかというと、

田村由美も、

もしかしたら、

今はなくなってしまった職業を思い、整くんのセリフがあったのではないかと

ふと思ったからだ。

その根拠は、

田村由美とわたしはほぼ同年代だからだ。

 

物を作る仕事、それを売る仕事、

自分が作ったものが、人の喜びになる。

自分が売ったものが、人の幸せになる。

そんな、

仕事の、

尊さ、

面白さは、

今もきっとそれぞれの場所で、

それぞれの人に、

訪れているのだろう。

そんなことが、

この歳になって少しだけ、

わかるようになった。

やっぱり腸内フローラが気になる。

ナナオ サカキ

前回のブログで書いた、

偉大な詩人であり、キレの良い方であった。

 

「きのうね、うんこしたら、きれいなうんこだったんです、ねんのため、ちょっと

ふいてみたけど、なにもついてなかったのよ、うん、いいでしょ」

 

私が直接聞いた、詩人 ナナオ サカキさんの言葉だ。

 

あらためて、すごいと思う。

ナナオさんは

野生の人でもあったのだ。

 

さて、

今回、

ナナオさんの言葉でブログを始めたのには訳がある。

 

ブログなので、

根拠は上げないが、

 

新型コロナウイルスは、腸内細菌叢のバランスによって、症状の出方が左右されるという。

 

本当かどうかはわからないが、腸内細菌叢のバランスといったら、

以前ブログに書いたフローラのことだ。

 

その時はふと、

腸内フローラは大事、

とおもって、ブログに書いたのだが、

新型コロナウイルスに関係しているとは、

思わなかった。

また、この記事を書いた後、

某国の棒総理大臣が、

腸の病で、引退するという声明を出したことにも驚いた。

 

腸さん、あなたはただの臓器ではなかったのですね。

 

私は腸内環境はとても大事だと、

ますます、思えてくる。

 

だったら、どうしたら腸内環境を整えられるんだ、

というと、

昔からのことが、

大事なような気がする。

 

たとえば、

腹を冷やさない。

食べ過ぎない、飲みすぎない。

 

食べ物だと、

うめぼしがいい、

お茶がいい、

ショウガとかもいいようだ、

とかね。

 

真偽のほどはわからないけれど、

昔から言われているのだから、

それなりの、根拠あってのことではないでしょうか。

腹を気持ちのいい方向に回すように、さするといい、

という人もいる。

そうそう、よもぎや、ニラなんかも、腹にいい食材らしい。

 

おーい、飲んだくれ!

ごたくはごもっともだが、

○○男のお前さんが言ったって、説得力ないぞ。

おまえさん、今あげたものを実行してるんか?

 

はい、一応やったり、食べたりはしております。

 

って、飲んだくれ!

それじゃぁ、今言ったことや物は役に立たないってぇこったろう!

 

いや、役に立つかどうかは、

実は私ではわからないのです。

 

そりゃ、いったいどうしたわけだ。

 

はい、

わるいものも、

いいものも、

酒で、みんな流してしまうからでございます。

無の境地、これでございますな。

 

いってろ!!

こののんだくれ!!!

ナナオ サカキさんのおもいで

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サカキナナオという人がいた。

詩人だ。

こんな詩を書いている。

 

「これで十分」

足に土

手に斧

目に花

耳に鳥

鼻に茸

口にほほえみ

胸に歌

肌に汗

心に風

 

これで十分

 

・・・・・・・

 

いい詩だと思う。

ナナオさんは、

1923年生まれ

 

私があったのは、

1980年代前半、

ナナオさんが70歳前の頃だったと思う。

無農薬の八百屋をやっていた

アチくんが、

ナナオがくるよ、

こない?

と誘ってくれた。

 

ナナオさんやアチくん、そのほか何人かと、

まだ自然豊かだった、流山を散歩した。

30数年前のことだ。

 

細かいことは忘れてしまったが、

ナナオさんが自慢していたことが心に残っている。

彼が自慢したこと、

それは、

「きのうね、うんこしたら、きれいなうんこだったんです、ねんのため、ちょっとふいてみたけど、なにもついてなかったのよ、うん、いいでしょ」

細かいことは忘れてしまったけれど、

そのようなことを言っていた。

すごいな、このひと。

 

ナナオさんの、詩は読んでいたし、

会った時から、

その雰囲気の途轍もなさに、ぽわーんとしていた私ですが、

このうんこ話には、

 

あこがれた。

 

ちょうじて、

もう少しで、当時のナナオさんの年齢かという、

いい歳になった私は、

下痢男だ。

 

あこがれのおとこは、

はるかかなただ。

 

わかってるってぽじさん、

のんだっくれに、きれはない!

それはしょうちなので、

私は迷っている。

きれをめざす・・・・・

そのことが、わが人生にとって、

何より大事なことではないのだろうか。

 

ナナオさん、

あなたのキレに憧れた、

わたしは、

30数年ぶりに、

あなたとの、

ウン迷の、出会いを、

思い出したのであります。