小学校の教員になりたかった。
しかし、通っていた大学に、
小学校教員養成課程はない。
どうしたら、小学校教員になれるのだろう。
結構悩んでいた時に、
大学寮のおばさんが聞いてきた。
「○○君は何やるのさ」
俺は答えた。
「あんまり考えていなんだけど・・・、小学校の先生になりたいんですよ。」
だったら、
といって、おばさんが教えてくれたのが、
小学校教員養成所だった。
当時、首都圏で小学校教員になろうとする若者は少なかったらしい。
志あるものは、民間志望だったのだろう。
であるからして、人材不足であった県は考えた。
(中高の免許しかないが、小学校の教員になりたいと思う若者を千葉の有能な教員としたいな)
そこで作られたのが、小学校教員養成所である。
悩んだ結果、私はそこで養成されるのを望んだのであります。
今から考えりゃさ、養成なんて、一番私には無縁な言葉ではないですか。
それでも、行っちゃタンです。
行っちゃたんだけれども、
やはり、そこで私は、その場に縁なきものでしたのです。
肌が合わなかったのです。
なので、苦労しました。
苦労しすぎて、 小児喘息再開。
夜に発作がひどくなり、
夜通し、苦しくて眠れない、
やっと、明け方に疲労困憊でうとうとしたら、
養成所に行く時間。
どうにかアパートを出ると、
すぐに呼吸困難で足が止まる、
少し休んで、やっと10分歩いて、養成所についたら、
どうにか、動ける状態になっている。
(喘息は活動する日中時間になると和らぐ、ということもあった)
そんなことの繰り返しが続いた。
でもそんな日も長くは続かず、
ある日の呼吸困難がどうしても収まらず、
這いずるようにアパートの部屋に戻って、
病院に連絡、
診断後、入院となった。
病院で三日間点滴をして、
一週間で退院。
でも、これは思い出の中のほんの小さな出来事なんです。
私は、養成所の中で、とびきりの異端児。
(その孤独感も喘息が再発した原因だったのだろう)
いけ好かない奴だったけれども、
たくさんの友だちに助けられた。
それが、40年近くたった今だから、
深く感じることができる。
そう、養成所には、
人情に厚い人が多かったのです。
その人たちの多くは、その後、
いい学校をつくろうと自分の時間を費やして、
がんばってきた、と思っています。
多くの仲間は、
いい管理職になったのだと思います。
俺はあのころから、
頑張り屋だったけれど、
がんばれなかった。
がんばれなかった人間が、
がんばってきた人を、
敬いこそすれ、
非難できない。
養成所の一年間は何事にも代えがたい、
かけがえのない時間だった。