(周囲をうろうろ回っている)=(浸れない) <浸るための極私的な戦いが今始まる

周囲をうろうろ回っている

なんのこっちゃ,というと

浸れない,ということであります。

 

あちゃあ、余計わかりません。

 

自分てなんだろう,

そんなことを漠然と考え始めた頃から,

僕は世界から離れているなぁ,という自覚があった。

アニメとか,漫画とかの物語の世界にだったら,浸ることができた。

でも,自分以外の人間がいる「社会」には,浸ることができなかった。

ものすごく浸りたいのだけれども,浸ることができない。

結果,浸りたいという思いが,自分の中だけで渦巻き混沌とし,普通に人と向き合えない。

 

人と向き合えない,ということは自分にとって死活問題だった。

感情が枯渇していった。

死にたいとは思わなかったけれど,

世界が白々としていた。

そんな時に「葉隠」という本を読み,

生きなくては,という思いが少しだけ顔を覗かせた。

その時自分に誓ったのは,「死ぬ時は切腹切腹以外では死なない。」ということだった。

私は痛がりだし,とても臆病。

切腹は嫌でしょ。

切腹をもって自死を遠ざける。

 

さて

葉隠」のお蔭もあり,

受験勉強のルーティンをこなすことで,

徐々に世界に色が戻ってきた。

少しだけ戻ってきたのだが,

対人関係は相変わらず苦手だった。

だから,対人関係で成り立っているこの社会でどう生き延びていくかが,

エネルギーを最も費やさなくてはならない出来事となった。

しかもそのエネルギーが,今思うと過剰であったために,

空回りしては転び,転んでは傷付いて,

その原因は自分にあると,

自分を責め,自己嫌悪になり,またエネルギーを空回りさせる,

その繰り返しだった。

そのため,

体はコチコチで,大学寮の先輩に、「お前はマリオネットみたいだよ。」と言われた。

ギクシャクし,ガチガチになった体は,学生のうちは持ち堪えたが,

就職し,仕事のストレスにさらされると,一気にガタがきた。

小児喘息が再発し,緊急入院することもあった。

しかし,いい職場であったことや,メビウス気流法という身体技法に出会ったことで,

体はなんとか持ち堪えることができた。

妻の助けも大きかったと思う。

 

そんなわけで,

生き延びるのに精一杯であったのだが,

ようやく還暦をすぎて,

少し余裕ができた。

なので、

「自分という存在の意味」

などというようなことを、

考えることができるようになったのである。

 

自分にとって大事なもの,それをつかみたい、

などというようなことを、

望むことができるようになったのである。

今私は、

私が大事だと感じる世界に、

思う存分、

浸りたいのだ。

浸りたいのである。

しかし,それがなんなのか,朧げながらはわかるのだが,はっきり見ることができない。

なぜ見ることができないかというと,

そんなもん、みなくていいだろう、酒飲んで能天気にしていればいいだろう、

とささやく、お気楽な自分もおりまして、

そのお気楽自分が,

見ないほうがいいよ、

今のままで十分だよ、とささやく。

そう、

見たくないという自分がいて,

見ないように抵抗しているようだ。

自分を邪魔しているのは,自分,そういうことらしい。

 

でも,いろいろあって、

大事なものの周りをうろうろ回っている、ということは自覚できてきた。

 

自分の求めている世界に浸るための、

スタートはここからだろう。